2015年1月5日月曜日

Sylva Koscina NUDE! vol.38 --- TEMPO 1973

シルヴァ・コシナが『デカメロン』を元にした舞台公演をおこなっていたことは、これまで何度か紹介しましたが、この公演についての記事がイタリアの雑誌"TEMPO"に掲載されていました。記事の内容とは関係ない写真が添えられています。

記事の内容は以下の通り。


舞台の女神 シルヴァ・コシナ

「長く疲労困ぱいとなった公演旅行でしたが、映画は決して舞台に代わり得るものではないと実感しました。」
6か月の間、シルヴァ・コシナは歓声をあげる観客の前で、ほぼすべての衣装を脱ぎ捨てた。ショーは、"Comedy of Decameron"というタイトル。彼女は、「来年は、もっと華麗なものにして再演する」と宣言しています。

シルヴァ・コシナ、118都市での舞台公演を終える

「ヌ~ド!ヌ~ド!ヌ~ド!ヌ~ド!・・・」の大歓声が、ほとんどすべてが男性で占められ、興奮して顔の紅潮した観客から毎晩発せられた。シルヴァ・コシナの耳にはまだその歓声が残っている。6か月の間、毎晩"Comedy of Decameron"の公演で、彼女の裸を見ようと満員になった観客の大声援を聞いた後では、忘れることは出来ない。6か月間の舞台公演、118の大都市から中小都市まで。北から南まで。この努力による、恐らく80百万の声援(もっとも、彼女はこの数字を確認していませんが)のほかに、ゴシップや忍び笑い、多かれ少なかれ憶測を交えた雑誌の記事、ほのめかし:シルヴァ・コシナが舞台で裸になった!映画館のスクリーンではなく、最前列からほんの数歩先に、シルヴァ・コシナの裸体がある。
「ミラノでの27回のステージを最後に、このツアーは終了しました。疲れました。私はこのようなツアーに慣れていません。」疲労が浮かんでいる:シルヴァは時々、目を大きく見開き、テーブルの上のトランキライザーの小瓶をもてあそんだ。
「休暇、まだ話題にもなっていない」彼女はため息をついた、少なくとも一瞬。「ここミラノでは、グラッパ(蒸留酒)のための次の広告の撮影があるでしょう。それから、私はすぐに映画のことを真剣に検討するためローマに行かなければならない。劇場での仕事が私の時間を奪い、私が映画女優として仕事をすることが難しくなっています。私には検討しなければならない多くの映画の脚本があります。しかし、その内容は契約を結んで女優としての活動を再び始めることをためらわせる。」
シルヴァはプレイボーイ誌でヌードを披露した最初のイタリアの名の知られた映画女優です。それは1967年のことでした。彼女の乳房は、彼女の年齢が間もなく40歳になろうとしているのにも関わらず、まさしく称賛されるべきで、大衆が想像する通りの素晴らしい形をしている。彼女の乳房は、人々に多くの強い印象を与えた舞台公演における真の主役でしたが、一方で演劇分野の評論家は無関心でした。(興行収入は記録的にも関わらず)

私の評判になったヌードの伝説
フランス人はあらゆるビーチでトップレスになっている

しかし、彼女は動物園の動物のように感じていないのでしょうか。「確かに、私はかつてそのように感じていましたが、見られることも私の仕事の一部です。従って、それは女性としてではなく女優としての問題です。なぜなら、何が人としてのモラルなのかを実際のところ見なければならない。大衆は外観を見て本質と混同する。例えば、もし売春婦のように話すと、それは演技としてのものですが、私生活でも売春婦であると思われてしまいます。しかし、私はそれを見て正反対のことを思う。そして、ご存じの通り、醜聞が怒りにかられた人に広まる。しかし、この場合の醜聞を私は理解することが出来ない。あなたの見るもの、特に映画館で見るものと比べると、私の“Commedia del Decameron”は飛び抜けて楽しいと思います。楽しいコメディがここにある。Bruno CorbucciとMario Amendolaが、皆を笑顔にするためにこの作品を書きました。そして大成功を収めた。」
それはマシンガンの銃口のようだった。シルヴァは怠惰で、午後1時まで寝るのが好ですが、議論を始めたら止めることは出来ない。「私の評判になったヌードの伝説は続いていますが、今や私のヌードでなくても、どこでもトップレスを見ることが出来る。それ以上でも以下でもなく、フランスでは去年ぐらいからすべてのビーチで相当数の女性たちがトップレスになっています。同じことが、セックスを扱いながらもグロテスクな映画にも登場する。」
これはシルヴァの最初の劇場経験ではありません。彼女はVittorio Gassmanと共演した1967年のDavid Canton 作“Mutatis mutandis”で舞台にデビューした。彼女はその舞台への出演を続けていたが、ハリウッドから声がかかった。「ハリウッドから戻って、私は再びAlberto Lionello と共演した"Topaz"というTVでも放送された作品に挑戦し、成功を収めました。その後も劇場出演の申し出はありましたが、私は常に多くの契約を抱えていたため叶いませんでした。私がこの舞台に出演すると決めるまでは。そして大成功だったと確信しています。言葉と同じで、誰も生まれながらには何も習得はしていない。そして私もこの6か月間で大変多くのことを学びました。来年、もっと良くして、引き続き明るい作品をもう一度やってみようと思う。結局のところ、私は新しいジャンルを発明したと思いませんか?間違いなく私がです。単純で楽しい私の愛しのショー、イタリアの皆さんに映画にはない、美しく、かけがえのない演劇の良さを伝えたい!」






2015年1月3日土曜日

Sylva Koscina NUDE! vol.37 --- INTERVIU 1976

1976年発行のスペインの雑誌"INTERVIU"から。
以前にも一部の画像を掲載したことはありますが、今回は少し画像の修正を行ってみました。
(とはいえ、素人がWindowsのオマケ・ソフトである「ペイント」を使って、画像のつなぎ目などを、ちょこっと直しただけですが)

同じ画像の一部がスペインの別の雑誌にも掲載されており、そこではシルヴァ・コシナのインタビューも載っていたので、まずはその記事から。(訳していて、少し興奮してしまいました。)


シルヴァ・コシナは言う:「私の『カラダ』を見せるのが好き」

彼女は、過去のイメージにとらわれない数少ない女優の一人である。最初はブロンド、あるいは栗毛。スキャンダラスな人生を送ることにストレスを感じない。ハリウッドや他の誘いから距離を置き、才能を認識し、リスクを回避した。その結果、シルヴァ・コシナは彼女が提供できるものに興味を持つ監督に対する明確な切り札として、素晴らしい『カラダ』をヨーロッパの芸術の世界に提供することにした。酒のブランド(訳注:シルヴァ・コシナは1970年代にイタリアのグラッパ・ジュリアという蒸留酒の広告に出ていた)のモデルとしてポーズをとり、毎年相当な収入を得ていた。イタリアの芸能人では稀なことではあるが、プライバシーに侵入することは非常に難しい。シルヴァは常にそれを脅かす全てのものを体系的に避けている。今回、映画“La mujer que olvidó su pasado”に主演した彼女に、私たちが興味のあることについて長時間のインタビューを行うことが出来た。

Q:シルヴァ、あなたにとって『愛』とは?
A:私には分かりません。私は2度結婚(訳注:いずれも内縁関係)し、結局『愛』を見つけることが出来なかった。私のように、40歳に達しても男性に『愛』を感じるのか、想像することは出来ません。『愛』とは、その現象からして何か若々しいものであるはず。『愛』そのものは、情熱やセックスではなく、何か別の物から成っていると思います。

Q:それでは、『情熱』とは?
A:尊厳を持って生きていく助けになり、変化や向上を促すもの。より多くの『情熱』をかけずに現実を理解することは出来ません。『情熱』のない人生は無意味です。そして、『情熱』とは愛という面のみに限定するべきではないと思います。私たちは、可能な限り同じ言葉(の定義)で話すべきです。私はフェリーニが彼の映画を監督する様子を見て、彼は彼の行っていることに深い『情熱』を感じていると確信できました。多分、男性の視点を通すことによって、普通の女性をより深く感じることが出来ると思います。そして、私はそれは素晴らしいことだと思う。幸いなことに、私は『情熱』が抑圧されない国に住んでいる。私の場合、私が愛したように、私が本当に愛されたとき、私は本当に快適に感じました。そして、それが最も重要なことだと思います。私は、映画が成功裏に終えたとき、または、名声を得たとき、非常に気分が良かった。『情熱』が全てです。それが私を突き動かす。

Q:セックスは?
A:私は自分の『カラダ』を見せることによって生活しています。従って、私は性的衝動が人間の行動をつかさどる基本的な役割を無視することは出来ません。性的な楽しみに関するあらゆることを広めるにあたって、ジャーナリズムは非常によくやっていると思います。生物学的な報酬という意味においてです。私はセックスの話をするのが好きです。私は先入観を持たないし、人生を楽しんでいます。

Q:同性愛を認めますか?
A:もちろん。目的を見失い混乱したこの世界、毎日個人の自由が制約されています。そこに同性愛を認める理由があります。実際にするかは別物ですが。しかし、繰り返しますが、理解することは絶対に必要です。同性愛を個人の性的関心として肯定的にとらえなければなりません。

Q:あなたは『カラダ』を見せていると言いました。あなたの露出の限界は?
A:それを決めるのは非常に難しい。私は、私の『カラダ』を見せることで生活している。そして、私はそれを残念なことだとは思わない。私は常に幸せです。かつて、精神科医は私に、「あなたは露出狂で、それに罪悪感を持っている」と言いましたけれど。私は、普通のショーで『カラダ』を露出することをすべての人が認めているとは思いません。しかし少なくとも、誰もそれを止めることはできないと思います。私がキュートなお尻をしているのに、見たくないの?男性の視線が私のふたつの乳房に吸い込まれるとき、私はどの様に振る舞ったらいいの?何も難しいことはありません。誰かが嫉妬をしているのでしょうか、不快なのでしょうか。私は、恥骨以外のすべてを見せている。どうってことありません。私は出し惜しみはしません。そんな必要はない。そんなことをしたら、淫靡な思わせぶりのヌードになってしまう。それから、私たちがこの問題を話し合うとき、皆は次のことを忘れている。女優がカメラの前に立つときは、通常、上から下までメイクアップし、その色を強調するために乳首にはルージュを塗り、必要とあらばより多くのことをカバーするためのありとあらゆる方法を試みたりします。例えば、シャーロット・ランプリングが不都合な日焼けをしてしまったときとか。これは実際、別の肌になるということ。それが、露出しているという意識を薄れさせる。要するに、私は私の『カラダ』を見せるのが好きなんです。それが私に喜びを与える。何が問題?毎日2杯のウィスキーを飲むことは、タバコと酒よりも悪いこと?(訳注:比ゆ的表現だと思うが、多分、「大したことではない」という意味か?)

Q:カメラの前でセックスが出来ますか?
再びプロセスを詳しく説明することを残念に思いますが、ポルノ映画を除いて、誰も映画の中で性交などしてません。良い監督は各ショットを少なくとも6回撮ります。これは、もしラブシーンが10のショットに分割された場合、60回演じるということです。あなたは、二人の俳優が60回も演技を繰り返すことを想像できますか?それは、信じられないくらい面白い状況です。そんな状況でセックス出来ますか?出来ませんよね。関係を持つには風通しが良すぎる。

Q:あなたは、男性の何が一番好きですか?
A:すべて。完璧な男性はいません。だから、素敵な欠点を持っていると考えなければなりません。秘密はありません。男性は私の人生に意味を与えることが出来ます。男性は、彼と生活を共にすることにより、私に子供を与え、幸せにすることが出来ます。それ以上何を望みますか。







スペイン語の原文:
La señora Sylva Koscina se confiesa: “Me gusta mostrar mi cuerpo”

Es una de las pocas actrices que no han necesitado adaptar demasiado su imagen al paso de los tiempos. Desde sus comienzos fue blonda, rubia o, a lo sumo, castaña; no se destacó por llevar una vida excesivamente escandalosa; prefirió mantenerse alejada de Hollywood y otras tentaciones y, sabedora de su escaso talento interpretativo, jamás intentó el riesgo de llevar adelante algún trabajo supremo. Por lo tanto, Sylva Koscina ha quedado fijada, en el panorama artístico europeo como un cuerpo fulgurante que, eventualmente, sirve como ilustre comodín al director que se interese por sus servicios. Y nada más. Y es querida, tiene sus admiradores fieles y no en vano una marca de licores le paga anualmente una verdadera fortuna para que pose como modelo exclusiva. Penetrar en su intimidad – cosa rara en un artista italiano – es bastante difícil; por lo general, Sylva suele rehuir sístemáticamente todo lo que pueda comprometerla de una u otra forma. Esta vez, y amparados en los desmadres que provoca la filmación de “La mujer que olvidó su pasado”, un film que la tiene como protagonista principal, pudimos hablar con ella un rato largo todos los temas que nos interesan. Este es nuestro testimonio:

- Sylva, qué es para ti el amor?
No lo sé. Me casé dos veces y debo confesarte que aún no he podido averiguarlo. No me imagino cómo se puede llegar a frisar los cuarenta, como yo, y sentir amor por un hombre. El amor debe ser algo joven en su manifestación. Y conste que hablo del amor en sí, no de la pasión o del sexo, que son otra cosa distinta.
- Qué es la pasión, entonces?
Es algo que modifica, que mejora, que ayuda a vivir con dignidad. No se puede entender la realidad sin poner mucha pasión. La vida sin pasión no tiene sentido. Y creo que la palabra no debe limitarse únicamente al plano amoroso. Hay que hablar el mismo lenguaje en todos los planos posibles. Yo he visto cómo Fellini dirige sus películas y puedo asegurarte que siente una pasión profundísima por io que hace. Tal vez mucho màs profunda que la que puede sentir una mujer común por un hombre. Y eso me parece formidable. Yo pertenezco a un país donde la pasión, por suerte, no se reprime. En mi caso, cuando he amado, cuando he amado de verdad, me he sentido realmente conforme conmigo misma. Y creo que eso es lo más importante de todo. Me he sentido mucho mejor que cuando terminé un film de éxito o que cuando me sentí halagada por la fama. La pasión lo es todo, es el motor de mi vida.
- Y el sexo?
Me gano la vida mostrando el cuerpo, por lo tanto no puedo ignorar el papel fundamental que el sexo juega en la conducta del hombre. Creo que el periodismo hace muy bien cuando difunde todo lo relativo al goce sexual. Esa es la verdadera compensación biológica. Y conste que yo no hablo del ser poseída por un hombre ni nada por el estilo. Prefiero hablar del sexo en sí. No soy prejuiciosa y me gusta vivir la vida.
- Apruebas la homosexualidad?
Claro que sí. En este mundo en que está todo revuelto, en que escasean las buenas intenciones y en el que se limitan cada día más las libertades individuales, me resulta casi una obligación aprobar la homosexualidad. De ahí a que la practique es otra cosa. Pero, te repito, es absolutamente necesario que se comprenda, de una vez por todas, que la homosexualidad siempre va a ser positiva mientras permita el desarrollo de la sexualidad individual.
- Me has hablado de mostrar el cuerpo, cuál es tu capacidad exhibicionista?
Es muy difícil determinarla. Yo vivo mostrando mi cuerpo. Y no me arrepiento por ello. Y siempre fui feliz. Una vez un psicoalalista me dijo que yo era una exhibicionista feroz y no me gustó nada. No me parece que el mostrar el cuerpo sea un hecho exhibicionista fuero de lo normal. Al menos, creo que nadie se perturba por esa. Que voy a hacer si tengo lindo trasero? Que voy a hacer si los hombre pierden sus miradas entre mis senos? No es nada desagradable. Y las que digan lo contrario es toy segura de que lo hacen por envidia o porque son feísimas. Yo he mostrado todo menos el pubis. No me interesa. No sirvo para ello. Apenas si me he limitado a insinuarlo. No necesito más. Creo que hace sugestivo el desnudo el ocultarlo. Y después, si hablamos del asunto, la gente se olvida que cuando una actriz se muestra ante las camaras está, por lo general, maquillada de arriba abajo, que tiene rouge en los pezones, para acentuar el color, y que, si es necesario, puede disponer de infinidad de recursos para disimular unos kilos de más o de menos – como, por ejemplo, Charlotte Rampling, que tiempre tiene el problema -, un bronceado inoportuno o un rasguñón. Es decir que, en realidad, se muestra otra piel. Entonces, y por lo tanto, el exhibicionismo se reduce. En definitiva, me gusta mostrarme, me da placer. Y qué? Creo que es mucho peor fumar o tomar más de dos whiskyes diarios.
- Harías el amor ante una cámara?
Lamento tener que desmitificar una vez más el proceso, pero creo que salvo en los films porno nadie hace el amor en una filmación. Y te explicaré un buen director realiza por lo menos seis veces cada toma. Es decir, que si una secuencia amorosa se desdobla en diez tomas, en realidad se hace sesenta. Te imaginas a dos tíos repitiendo sesenta veces una escena? Es realmente cómica, inconcebible. En cuanto a si sería capaz de hacer el amor, te digo que no. Es algo demasiado íntimo como para ser ventilado así porque sí.
- Qué es lo que más te gusta de los hombres?
Todo. El hombre perfecto no existe, así que hay que tratar de elegir al que tenga las imperfecciones más agradables. No hay demasiados secretos. Un hombre puede darle sentido a mi vida. Me puede dar un hijo, hacer feliz, compartir su vida. Que más se puede pedir?


https://www.youtube.com/watch?v=D3R0rRv6v7E&list=PLz2FHGxPcAlj1jbspo3hfWIUDlKj1wEIn

http://www.youtube.com/watch?v=aC9gyVeCAp0&feature=c4-overview-vl&list=PLz2FHGxPcAlhlobcx-uY95TgNJKJ3zJmR

http://www.youtube.com/watch?v=DYRHZX3m-bg&list=PLz2FHGxPcAlhlobcx-uY95TgNJKJ3zJmR


2015年1月1日木曜日

Sylva Koscina NUDE! vol.36 --- perform in a theatre #9

以前に紹介した画像も含まれていますが、シルヴァ・コシナが1976年に公演を行った舞台の写真に添えられた解説文とともに、改めて紹介します。

これが掲載されていた雑誌自体は1984年にイタリアで発行されたものです。

まず、雑誌に掲載されていた、1984年の50歳を迎えたシルヴァ・コシナの画像。これは、雑誌の解説文からすると、この年に制作されたミニTVシリーズのもののようです。



まだまだ、魅力的です!

続いて、シルヴァ・コシナの肢体がいかに素晴らしかったかを称賛する雑誌の記事。

シルヴァ・コシナが、“E la vita continua”(訳注:1984年制作のTV Mini-Series)や“Cenerentola 80”でスポットライトの下に戻ってきた。彼女は、長い間、映画界や華麗な演劇界で最も称賛されたセックス・シンボルの一人であった。私たちは、1976年の舞台“Tutti i nudi vengono al pettine”(訳注:『すべてのヌードが家に来る』とでも訳すのでしょうか?)の幾つかの場面を絶賛する。

50歳に差し掛かったシルヴァ・コシナはTV映画“E la vita continua”や、Bonnie BiancoとPierre Cossoが主演の映画“Cenerentola 80”で重要な役を演じています。
1950年代の初めからイタリアに在住する有名なユーゴスラビア出身の女優は、存在感が薄れつつあった長い期間の後の、まさに復活しました。(訳注:シルヴァ・コシナは、1970年代後半から活躍の場を劇場に移し、そこでのヌードは評判になっていたのですが、映画にはカメオ的な小さな役でしか出演していませんでした)
映画界における大いなる成功の後(50年代、60年代のイタリア映画界でのスターの一人であった、そしてハリウッド映画も幾つかの作品で彼女の彫像のような美しさを披露した)、シルヴァは惜しみなく「裸になること」の境界を超えた最初の女優の一人となった…映画のカメラの前で服を脱いだのである。
当時は大きな賛否を呼んだが、“Justine”(マルキ・ド・サドのジェスティーヌ:この作品では、若いロミナ・パワーに負けじとヌードになっている)や“L’assoluto naturale”(彼女と彼)で、その肢体を披露している。
その後、1970年代半ばには、シルヴァは幾つかの映画に「裏切られ」、華やかな劇場に専念するようになり、非常に質の高いショーガールの出演する多くのコメディー作品を携えイタリアで公演を行った。これは、彼女のギリシャ彫刻のような極めて美しい肢体を見せることに主眼が置かれていた。(アメリカのプレイボーイ誌のために彼女のヌード写真を撮影した有名な写真家のアンジェロ・フロントーニは、これまで撮影した中で「最も美しい肢体」であると彼女を称えている)
この雑誌に掲載した写真は、シルヴァが主演した“Tutti i nudi vengono al pettine”からのものである。1976年は、シルヴァが最も美しく、最も裸体を披露した年であった…

1976年といえば、シルヴァ・コシナは43歳になっているのですが、以下の通り素晴らしい肢体を劇場で披露していました。映画と異なり、残された画像が少ないことが残念です。






原文:
Sylva Koscina, tornata prepotentemente alla ribalta con “E la vita continua” e con il film “Cenerentola 80”, è stata per anni uno dei più ammirati sex-symbol del nostro cinema, e anche del “teatro brillante”. Riammiriamola in alcune sequenze della commedia “Tutti I nudi vengono al pettine”, del 1976.

Alla soglia dei cinquant’anni, Sylva Koscina è tornata prepotentemente alla ribalta con un’importante partecipazione al film televisivo “E la vita continua” e con un ruolo di primissimo piano in “Cenerentola 80”, il film interpretato da Bonnie Bianco e Pierre Cosso.
Per la famosa attrice jugoslava, che tuttavia vive in Italia dall’inizio degli anni Cinquanta, si tratta di una vera e propria rinascita dopo un lungo periodo di penombra, in cui le sue interpretazioni si erano andate sempre più diradando.
Dopo gli anni dei suoi maggiori trionfi cinematografici (era stata una delle “star” di Cinecittà negli anni Cinquanta-Sessanta, e anche Hollywood aveva voluto assicurarsi la sua statuaria bellezza per alcuni film), Sylva era stata fra le prime attrici a varcare la soglia del “nudo”, esibendosi generosamente… svestita davanti alla macchina da presa.
Particolare clamore fecero, in quel periodo, I suoi nudi in film come “Justine” (in cui lavorava anche l’allora giovanissima Romina Power, non meno svestita) e “L’assoluto naturale”.
Poi, a metà degli anni Settanta, Sylva “tradì” per qualche tempo il cinema per dedicarsi al teatro brillante, portando in tournée per l’Italia un paio di commedie in cui, oltre a dar sfoggio de notevoli qualità di soubrette, metteva generosamente in mostra – fra paillettes e lustrini – il suo splendido corpo da statua greca (Angelo Frontoni, che la fotografò nuda per Playboy americano quand’era alculmine del suo splendore, definì quello di Sylva “il più bel corpo” che aveva mai fotografato).
Le fotografie che pubblichiamo in queste pagine si riferiscono, appunto, al più noto e fortunato di quegli spettacoli teatrali di cui Sylva fu l’ammirata protagonista: “Tutti I nudi vengono al pettine”, allestito e interpretato – in qualità di “capocomico” – da quella vecchia volpe della “rivista” che è Lucio Carano. Correva l’anno 1976, e Sylva era più bella e nuda che mai…



https://www.youtube.com/watch?v=D3R0rRv6v7E&list=PLz2FHGxPcAlj1jbspo3hfWIUDlKj1wEIn

http://www.youtube.com/watch?v=aC9gyVeCAp0&feature=c4-overview-vl&list=PLz2FHGxPcAlhlobcx-uY95TgNJKJ3zJmR

http://www.youtube.com/watch?v=DYRHZX3m-bg&list=PLz2FHGxPcAlhlobcx-uY95TgNJKJ3zJmR